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伊坂幸太郎さんの『グラスホッパー』
2004年に単行本が発売され、2015年には映画化もされました。
映画ではごっそりそぎ落とされてしまっていますが、実は原作には多数の伏線がちりばめられています。
この伏線こそがグラスホッパーの醍醐味ですが、一度読んだだけではスルーしてしまうような難しさも含まれています。
今回は、グラスホッパーの伏線を徹底的に回収し、結局どうだったの?という考察まで、個人的な意見にはなりますが紹介したいと思います。
最後までお付き合いくださいませ。
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Contents
【グラスホッパー】鈴木の体験は幻覚だったのか?伏線を回収!
グラスホッパーの読者の間でずっと論争されているのが、2日間の鈴木の体験は幻覚だったのか?という点。
その論争の元になったのが最後の一文「それにしてもこの列車、長くないか。回送電車は、まだ通過している」という表現です。
私は正直、この一文、普通にスルーしました(笑)
考え事をしていたり、ぼーっとしたりする時に時間の経過がゆっくり感じられる(逆に早く感じられる)ことってありませんか?
そういう表現の一種かと思ったのです。
でも、そうではない、という意見がネット上では散見されます。
その根拠となる伏線があるんですよね。
それらを紹介していきます。
信号の点滅が終わらない
鈴木は寺原息子に復讐する目的で「フロイライン」に入社したが、それが相手側にバレてしまっており、その疑惑を払拭するために見知らぬ男女2人を殺すように迫られます。
今からまさにその寺原息子がここへやってくる、と比与子に告げられ冷や汗だらだらで車の中で待つことになった鈴木は、目の前の信号を見ながら
交差点の歩行者用信号の点滅がいつまでも終わらない。この信号いつまで点滅しているんだよ。
と心の中でつぶやくシーンがあります。
これも、私はそういう心理描写の一種かと普通にスルーしました。
まだ物語のかなりの序盤で、ストーリーがほとんど始まっていないような段階で出てくる一文ですが、でもこれも伏線の一つなんですよね。
これが何を意味するかはこの時点ではわかっていません。
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幻覚の兆候は信号や列車
鯨が梶を自殺させ寝床の公園に戻ってきた時、ホームレスの田中が幻覚の兆候について語る場面があります。
田中は鯨が幻覚に悩まされていることを知っており、このまま悪化すれば幻覚に呑み込まれてしまうと警告するのですが、その時に以下のようなセリフを言います。
目の前の信号の点滅がちっとも止まなかったり、歩いても歩いても階段が終わらなかったり、駅で目の前を通過する列車がいつまで経っても通りすぎない、この列車ずいぶん長いなぁと思ったらまずい。
これを読んだ時も、私は冒頭の鈴木のシーンには結び付きませんでした(ちゃんと読んでいないのかな汗)。
ただ、改めて読み返してみると、この状況での田中と鯨の会話にしては少々不自然とも言えます。
鯨はかなりはっきりとした幻覚を見ており、すでに現実と幻覚の区別が曖昧になりつつある状況です。
そして田中にもそのように言っています。
にも関わらず「幻覚の兆候とは」って話をしているんですよね。
すでにがっつりと幻覚を見ている人に、幻覚初心者に説明するようなセリフ。
う~む。ここで気づくべきだったか。これは鯨のことではなく、冒頭の鈴木のことを仄めかして作者が散りばめた伏線だった可能性が高いですね。
そしてもう一つ、田中は重要なことを言っています。
信号は見始めの契機で、列車は目覚めの合図。
物語冒頭で「信号の点滅が終わらない」と言っていた鈴木。
そして最後の最後に「この列車、長くないか」と言っていた鈴木。
これは、幻覚の始まりと終わりを示唆している、という説。
説も何も、間違いなくそう意図されてこの文章が書かれたのだと思いますね。
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伏線と矛盾する部分もある
鈴木の体験は幻覚だったことを示唆しているのだろうとは思いつつ、説明がつかない部分もあります。
幻覚の始まりは信号で、終わりは列車、この言葉を信じるならば、鈴木が最初に信号の点滅を意識したのは寺原息子を待っている車の中ですよね。
ということは、それまでの部分は現実であると解釈することができます。
- 妻が殺される
- 復讐のためにフロイラインに入社
- 寺原息子から疑われる
- 罪のない若い男女を殺すように要求される
ここまでは現実ということですよね。
この状況から、気づいたら駅のホームにいた、というところまで幻覚だったとしたらかなり不思議なことです。
蝉や鯨、槿とのエピソードが幻覚だったとしても、危ない裏社会に足を突っ込んだところまでは事実なので、そこからどうやって駅のホームまで飛ぶのか。
2日間駅のホームにいたのでしょうか?
それはさすがにちょっと無理がありますよね。
ですが、矛盾する!おかしい!ということではなく、読者が「???」となるところまで含めて作者が意図したことなのだろうと私は思います。
それほどこの作品は緻密で計算されていると感じます。
【グラスホッパー】蝉の心の闇について考察
もう一点、グラスホッパーが難しい、わかりにくいと言われる理由は蝉の心の闇についてだと思います。
何度も登場する「しじみ」。
しじみを砂抜きする時に出る泡を見ながら
- 人間もしじみのように呼吸していることが見えたらいいのに
- 人間も呼吸していることが外から見えたら、暴力も振るいにくいだろう
- しじみを殺して食う、ということが重要
- 殺して食って生きているということを自覚すりゃいいのに
等々、蝉がしじみに対する強い思い入れがあることを感じさせる表現が多数あります。
これは裏を返せば、蝉には「自分や他人が生きている実感がない」という意味にも捉えられます。
岩西が蝉に対し「人殺しをするときってどんな気持ち?」と聞く場面がありますが、この時蝉は「ほとんど何も感じない」と答えます。
それは、自分も他人も生きているという実感がなく、実感のないものを殺すことに何の感情も伴わないから、というふうに解釈することができます。
自分は岩西に殺しという仕事を与えられ、それをこなすことで生きているということを心のどこかで感じながらもはっきりとした自覚はなく、終盤で鯨の目を見てしまった時に初めて、岩西がいなければ(殺しの仕事がなければ)自分は本当に空っぽだと自覚してしまうんですよね。
こういった蝉の心の闇を「しじみ」を使ったり、『抑圧』という映画を使ったり、本当に短い会話のやり取りで表現する伊坂幸太郎さんてどんな頭の構造してんの??
と思ってしまいました(^-^;
こんなふうにしか考えられなくなってしまった蝉の生い立ちはいったいどんなだろう?と気になってしまいますが、当然ながらその答えをくれるような場面は全く登場しません。
すべては読者の想像に任せるというスタンスなんですね。
なので、蝉の心の闇に関しても読み手によって様々な解釈があると思います。
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まとめ
今回は、伊坂幸太郎さんの小説『グラスホッパー』について、伏線を回収し考察してみました。
- 鈴木の2日間の体験は幻覚であると示唆するような伏線がある
- 幻覚だったとしても説明がつかない部分もある
- 蝉の心の闇の表現が緻密で秀逸
登場人物たちの会話にセンスがあり、全編を通して誰もが多くを語らないというスタンスが独特な世界観を築き上げています。
セリフをかなり深読みしないと、最後まで読み終わった時に謎だらけで「よくわからない」という感想を持つことになってしまいますが、これらもすべては作者の計算のうちなのでしょう。
読み手によって解釈はさまざまだと思いますが、誰かの疑問の解決の手助けになれば幸いです。
では、最後まで読んでいただきありがとうございました。
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